第2話

葵がどうやって眠りに落ちたのか、覚えていない。

胃の痛みと胸の悲しみが見えない大海のようで、彼女はその上の小さな舟だった。

翌朝目覚めると、隣は空っぽだった。

そこへ梨乃の電話がかかってくる。

葵が出ると、梨乃は申し訳なさそうに言った。

「ごめんね葵、昨日は忙しすぎて。今からシステム調べる」

「……うん」

受話口の向こうでキーボードの音が鳴る。梨乃が検索しているのだ。

たった数秒なのに、一世紀みたいに長い。

やがて梨乃の信じられないという声が、葵の中に残った最後の微かな希望を叩き割った。

「葵……婚姻システム見たけど、あなた『未婚』になってる。え、でも和也と結婚したんじゃ……?」

頭上にぶら下がっていた刃が、ついに落ちた。

葵は電話を投げ出し、洗面所へ駆け込んだ。

胃の中は空なのに、えずきが止まらない。

裏切りの気持ち悪さで、立っていられない。

吐きながら涙だらけになり、ふらふらと部屋へ戻る。梨乃はまだ繋がっていて、焦った声が響いた。

「葵、どうしたの!? 大丈夫!?」

「……大丈夫。ありがとう、梨乃。少し用があるから、切るね」

「うん、何かあったらすぐ言って」

通話を切ると、葵はゆっくり目を閉じた。

泣かなかった。代わりにベッド脇へ座り、ノートパソコンを開く。

数回のキー入力。暗網端末の画面が立ち上がり、緑のコードが並ぶ。指令を叩き込み、瞳に高速で流れるデータが映った。

三分。市役所の基幹データベースへ潜った。

原本記録。彼女の身分証番号に対応する欄には、はっきりと――『未婚』。

さらに照会ログは綺麗に改竄されていた。

三年前、彼女が書いたクローラが叩いたAPIも、返ってくる値はすべて偽の応答。

葵は椅子にもたれ、かすかな苦笑を漏らした。

調べられなかったんじゃない。信じすぎていただけ。

もう、誰も信じない。

和也との結婚は人生の避難所だと思っていた。彼は冷淡で、長年の付き合いも形だけで、情熱的なのはベッドの上だけ。それでも葵は必死で「夫婦」を保とうとしていた。

だがこの瞬間、嘘は剥がれ落ちた。

彼女が頼り、必死に守ってきた結婚は、最初から最後まで――完全な詐欺だった。

枕元の写真立てに視線が落ちる。

二人のツーショット。笑っているのは彼女だけで、和也は半身ほど距離を取り、表情は冷たい。

今になって気づく。

写真ですら、彼は彼女に寄ろうとしなかった。

「……嘘つき」

葵は勢いよく写真を掴み、ゴミ箱へ投げ捨てた。

連絡先を開き、外部の番号へ電話する。

「坂田弁護士でしょうか。離婚協議書の作成をお願いします。できるだけ早く」

離婚する。

すべてを手配し終えてから、葵はへとへとの身体を引きずって出社した。

だが、会社に着くやいなや、オフィスへ呼び出される。

直属の上司である陳聡が、不機嫌そうな顔で彼女を睨みつけていた。

「葵、君はいったいどういう仕事の仕方をしているんだ? なぜ藤原グループとの提携がまだ本決まりになっていない」

葵の目に意外な色が走った。

以前、和也と両社の提携について話をした際、彼は確かに頷いて承諾していたはずだ。

「申し訳ありません、陳マネージャー。今すぐ藤原さんに確認してまいります」

陳聡は苛立たしげに急かした。

「早く行け。藤原グループとの提携は、我が社の今後の最重要プロジェクトなんだぞ」

葵は無理に頷き、会社を出るとそのままタクシーを拾って藤原グループへ向かった。

和也の社長室の場所は知っている。ドアの前に立ち、ノックしようとしたその時、中から女の甘ったるい声が聞こえてきた。

「和也、私もう帰国したんだよ。まだ葵にちゃんと話すつもりはないの? あの時、彼女を騙して結婚したのは、私を守るためだって分かってる。家族からの結婚の催促を黙らせるためだったんでしょ」

「でも、もう私は戻ってきたの。全部、元の鞘に収まってもいいんじゃない?」

女の言葉が一語一語、葵の耳元で落雷のように轟いた。

虚ろな目で、少しだけ開いたドアの隙間から室内を覗き込む。そこには、和也が愛おしそうに寧々を抱きしめている姿があった。

なぜ自分を騙したのか、和也を問い詰めようと思わなかったわけではない。二人はすでに結婚しているのだから。だが、問い詰めるまでもなく、答えは目の前に突きつけられた。

自分はただ、和也が都合よく用意した道具にすぎなかったのだ。

和也はドアの外にいる彼女に気づく様子もなく、寧々を宥めるのにかかりきりだった。

「俺と葵の婚姻関係を清算するのは、少し厄介なんだ。偽装とはいえ、世間的にはあいつが俺の妻ということになっているからな。処理する時間を少しだけくれ」

寧々は彼の胸にすり寄りながら甘えた。

「あなたにも事情があるのは分かってる。大丈夫、何があっても、私ずっと待ってるから」

その光景に、葵の目頭が熱く焼けた。

今朝、鎮痛剤で無理やり抑え込んだ胃の痛みが、再びびっしりと絡みついてくる。見えない蔓に首をきつく絞められているようで、息もできない。

和也はずっと冷淡な人間なのだと思っていた。だがこの瞬間、それが間違いだったと思い知らされた。

和也だって優しくなれるし、人を甘やかすこともできる。ただ、彼の心の中には永遠に寧々の居場所しかないというだけだ。

寧々をより早く、より安全に自分の元へ呼び戻すために、彼は葵を盾として差し出したのだ。

葵は逃げるようにその場を立ち去った。

頭の中は、先ほどの社長室での会話で埋め尽くされている。

自分はただの馬鹿なだけでなく、都合のいい道具だった。

会社に戻ると、心ここにあらずの葵を見て、同僚が目の前で手を振った。

「葵、どうしてそんなに顔色が悪いんだ? あ、言い忘れてたけど、今日うちの会社に新しいトップが天下りしてきたんだよ。すごくイケメンらしいぜ」

葵が瞬きをして何か言おうとした矢先、背後から突然、割れんばかりの拍手が湧き起こった。

「我が社の新社長、水原悟氏を歓迎しましょう」

葵は勢いよく振り返り、入り口から歩いてくる男女の姿を信じられない思いで見つめた。

水原悟――その名前は、ここ数年ずっと彼女の心の奥底にある、触れることすら恐ろしい傷跡だった。悟は彼女の初恋の相手だからだ。

だが今、悟の隣には見知らぬ美しい女が立っている。

同僚が興味津々で囁き合った。

「水原さんの隣にいる女の人、すっごく綺麗だね。彼女かな?」

葵は体側に下ろした手を、黙ってきつく握りしめた。

悟は無表情のままフロアにいる全員を見渡し、葵に特別な視線を向けることは一切なかった。

「皆様、私は外部からの着任となりますが、皆様にはこれまで通りの業務態度と能力を発揮していただきたいと考えております。これからの時間、共に尽力してまいりましょう」

だがその時、二階の階段に置かれていた鉢植えが、突然落下してきた。

「危ない!」

鉢植えは床に激突し、粉々に砕け散った。

悟は躊躇うことなく、腕の中に鈴木晴美を庇い込んだ。その動作が大きすぎたせいで、すぐそばにいた葵にぶつかったことすら気づいていない。

無防備だった葵は、ただでさえ弱っていた身体を不意に突き飛ばされ、床に激しく倒れ込んだ。手首から、錐で揉まれるような激痛が走る。

立ち上がる力すら残っておらず、荒い息を吐きながら、少し離れた場所にいる悟を見上げるしかなかった。

悟は依然として葵に一瞥もくれず、ただひたすら晴美に怪我はないか、怖くなかったかと気遣う言葉をかけ続けている。

葵の心に、この瞬間また一つ大きな穴が空いた。同僚に助けられながらゆっくりと立ち上がった時、ポケットの中のスマホが突然着信音を鳴らした。

和也のアシスタントからの電話だった。

「水原さん、藤原さんからの伝言です。古川さんの昨日の誕生日に関する世間の噂について、火消しの広報対応をお願いしたいとのことです。その見返りとして、藤原グループはあなたの会社と提携を結ぶと」

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